立野ヶ原の監的壕(たてのがはらのかんてきごう)

金沢から富山県の南部に行くときは国道304号線か、最近整備されて通りやすくなった県道27号(金沢ー井波線)を利用することになります、どちらの道路で行っても県境を越えて最初に入る所は南砺市になります。
今日お話しをする福光町も2004(平成16)年に市町村合併で南砺市に編入しています、福光町の南の丘陵地帯は立野ヶ原と呼ばれていて、現在はのどかな田園地帯になっていて、特産の柿を栽培する果樹園や畑作、水田などが広がっています。

この丘陵地帯の歴史をひもとくと、1898(明治31)年ごろからこの地は日本陸軍の演習場であった時代が有ります。

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日清戦争が1895(明治28)年で終わった後の1898(明治31)年に砲兵装備を有する金沢第9師団が設立されました、設立と同時期に陸軍省はこの立野ヶ原を射撃演習地として着目して、四回にわたって147万坪(一節では180万坪とも言われている)を買収して「立野ヶ原陸軍演習場」を設置され、砲兵のみならず諸兵科の訓練場として全国でも富士山麓に次ぐといわれる大演習場となった。
現在の立野ヶ原の一角にある桜が池では、湖畔の杜の中に遊園地や宿泊施設があってのどかな光景が見られます、湖畔の後方にこんもりとした丸い山が見えますが「丸山」です、演習場時代には砲撃の着弾地の目標になった山です。
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丸山監的壕(まるやまかんてきごう)

桜が池から丸山を越えるジグザグ道を登って行くと道路の脇に大きなコンクリート構造物が有ります。
演習場だった頃の遺物「丸山監的壕」(まるやまかんてきごう)です、この監的壕は砲弾の的中率や機能、効果を観察するための壕です、私が初めて桜が池に来た当初は藪や蔦で覆われていて現在のように全容は見られませんでした。
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表示看板の文字が小さくて読みにくいと思いますので原文をそのまま書きます、

監的壕

眼下の桜が池から北へ3キロメートル、東西2キロメートルに亘って広がる丘陵が立野ヶ原で、先土器時代から縄文時代を中心とする遺跡が点在する県下有数の埋蔵文化財包蔵地帯である。
日清戦争が終わり、翌年の1896(明治29)年に砲兵装備を有する金沢第9師団が設置され、陸軍省はその射撃演習場としてこの立野ヶ原に着目した。
同年5月から四回に亘り147万坪、当時の南山田、太美山、東太美山村にまたがる一帯を買収して、「立野ヶ原陸軍演習場」が設置され、砲兵のみならず諸兵科の演習地とした。
特に砲兵の実弾射撃は、飛野(現在の自動車学校のあたり)を拠点として実施され、この地丸山周辺を被団地としていたので着弾効果を観測する為に「監的壕」がいくつか建造された。
この監的壕はその最後の建築物で、昭和10年代の遺構であり、現在演習場としての当時を偲ぶ唯一の遺産である。

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この監的壕の中で飛んでくる砲弾の着地点や破壊力を細いのぞき窓から監察していたのでしょう。
ドーム屋根の建物で外径6m、内径4m、高さ3.9mの構造物です、この丘陵地帯にはいくつかの監的壕が造られた様ですが現在残っているのは、ここともう一か所のみです、この丸山監的壕は昭和10年代(一節によると昭和12年)に造られた監的壕で、最後に造られたものです。
建造されてから80年近く経てコンクリートには多少のひび割れが見られるものの保存状態は良好です。
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のぞき窓の奥行きを見るとコンクリート壁の厚さが分かります、大凡1mの厚さのようですが、いくら味方が発射した砲弾とはいえ砲弾がそれて直撃されたら怖いですね。
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後ろに回ると内部に入る鉄の扉が有りました、厚さ大凡15㎝で最近まで南京錠が掛かっていた様ですが外されていました、取っ手を持って開かないか引っ張って見ましたが、扉が重い上に蝶番が錆びていてビクともしません。
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少し開いている扉の隙間から中を覗いたのですが、中は真っ暗です。
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扉の隙間からコンデジカメラを差し込んで、フラッシュモードで撮影してみました、内部はガランとした殺風景の空間で、ドームの内径に沿ってコンクリート製のベンチが有り、のぞき窓の下には棚状の肘掛けが有ります、ここに肘をかけて双眼鏡で監察していたのでしょう、冬季も演習していたかどうかはわかりませんが、内部は寒かったでしょう。
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目玉監的壕(めだまかんてきごう)

二か所目の監的壕はその場所が分からづに、広い丘陵地の農道をウロウロ探しても分からづ農作業をしていた二人の地元の方に聞いたのですが、記憶があいまいだったり、場所を教えて下さるものの広い田園地帯にはさしたる目印もなくわかりませんでしたので、その日は諦めて帰りました。
後日、ネットで色々と調べてから出直しました、二度目の時にはすんなりと現地に着くことができました。
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この監的壕は半地下式になっていて、見る方角によっては遠くから見つけることが出来ません、形状から「目玉監的壕」の名前で地元から呼ばれて来ました。
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表示看板が読みにくいと思いますので原文のまま書きます。

立野原監的壕(目玉監的壕)
日清戦争後の明治31(1898)年、金沢に砲兵装備を有する陸軍省第9師団が設置され、その演習場として立野原一帯が買収され、450ヘクタールを超える大型演習場となりました。
砲兵の実弾射撃は飛野(現 南砺自動車学校付近)を拠点として実施され、約4㎞先の立野原周辺を着弾地としており、砲弾の的中率、性能効果を監察する為に監的壕がいくつか設けられました。
当初は土坑であったものが、昭和3年頃に近代的で強固なコンクリート製に改修されました。
構造は半地下式、監的室は円形型、ドーム屋根で導入路が付いています。

この監的壕は、その形状から地元では「目玉監的壕」と呼ばれ、保護されてきました、かって立野原が軍事演習場として利用された歴史を今に物語る貴重な存在です。
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後部の導入路から内部に入って見ました、草が茂りじめじめしていて長いものがいないか気味が悪かった、あらかじめゴム長を用意してきて正解でした。
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監的室はドーム型でこちらにはベンチも肘掛のありませんでした。
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ドーム型天井です、コンクリートが剥離しないように最近防水塗料が塗られた様ですが、数年前までは制作時に型枠の剥離を良くするために新聞紙が使われていたそうです、その新聞紙が天上のコンクリートに張り付いていて、一部分の文字も読めたようです、調査の結果、朝日新聞の昭和3年11月7日付けの紙面と判明したそうです、防水塗料が塗られた後でも新聞らしい影が見えます。
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監的室の窓からは立野ヶ原の田園の向こうに福光の市街地が見えます、4㎞先の福光の市街地から砲弾が発射されてこちらに飛んで来る様子をこの窓から監察していたのでしょう。
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窓には扉が付いていて開閉できるようになっていた様です、扉はありませんでしたが、蝶番の取り付け金具などが残っていました。
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正面から見るとタコ焼きかロボットの頭のように見えます。
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外部からのぞき窓を見るとコンクリートの厚さが分かります。
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昭和3年に製作されて、すでに90年近くの年月が経っています、コンクリートも劣化して剥離した部分もあります、中には骨材として石が並べられています、最近石がはがれないようにコンクリートを塗って応急処理されていました、現在のRC構造のような鉄筋は見当たりません。
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高い盛り土の上に登ってみました、砲弾発射地点の福光の市街地が小さく見えます。
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後ろを見ると立野ヶ原の田園が広がっています。
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望遠で見ると射撃目標の丸山が杉木立の上にこんもりとした姿が見えます、
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現在ですと演習場にするために、147万坪の農地や山林を国が買収するとなると、反対者も出る中で大勢の地権者と交渉するのは大変なことです、当時は地元の町村がこぞって演習場を誘致したそうです。
それは某国の先軍政治のような「富国強兵」の政策を当時から進められ、軍備最優先の国策なればこそなし得たことでしょう。
その後、1904(明治37)年に日露戦争が勃発すると、金沢第9師団は乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将率いる第3軍隷下(れいか)で旅順攻囲戦に参戦しています、そのときに砲撃訓練が実戦でどの程度役に立ったかは知る由もありません。

監的壕はこの平和な山里の過去の歴史を物語る遺物として長く保存されることを望みます。

長い記事を最後までお目を通していただいて有難うございます。



☆この記事を書くにあたり、”ウィキペディア”や”いこまいけ南砺”等の文献を参考にさせていただきました。


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この記事へのコメント

2016年07月18日 08:27
戦前の遺跡が長閑な田舎に残っているのですね。
日本中が富国強兵で誰一人反対することもなく(反対すれば逮捕、投獄)戦争に入って行ったのでしょう。
今の隣の国と同じ様な歴史を辿って今日の立派な国になったものかと思うと今の人は幸せですね。
2016年07月18日 13:36
信徳様へ
のどかな田園地帯に戦争の遺物が残っています、当たり前のように思っている、現在の平和な世の中を再認識する為と二度と間違えを起こさないようにするためにも後世に残して欲しい遺産ですね。
この立野ヶ原は特産の干し柿を造るための柿畑やイチゴ狩りの畑が広がっていますが、現在の様子からは大砲ぶっ放した演習地は想像も出来ません。
その時代は国民全員が洗脳されていたのでしょう、先の戦争でかけがいのない命を落として犠牲になった人達に感謝して平和な世の中を不変のものにしなくてはいけませんね。
2016年07月18日 22:39
こんばんは。
僕は考古学をやっているのですが、さいきん考古学の研究対象が広がってきました。
古くは中世ぐらいまでしか考古学の対象ではなかったのですが、さいきんでは明治時代ぐらいまでは対象が広がってきています。
さらには、第2次大戦あたりを対象とした、戦争考古学というのまであるくらいです。
平和を守っていくためにも、こうした時代の研究は必要だと思います。
2016年07月19日 08:17
家ニスタ様へ
おはようございます、考古学の研究や音楽、食べ(飲み)歩きのblog記事を楽しく読ませて頂いております、考古学調査士の勉強をされていて、海外までも調査に出向いておられることは立派だと思います。
考古学といえば縄文、弥生の時代を想像しますが、明治時代は考古学上では近代になるのでしょうか、今回の記事はお隣の県に戦中の遺構が有ることを知って訪れました、興味本位で書いた記事を考古学専門の方に見られることは誠にお恥ずかしいかぎりです。
以前の記事で家ニスタさんが私は住んでいる近くの鶴来の舟岡山城祉を尋ねられていますが、私は近くに暮らしていながら未だ行ったことがないんです(笑)、興味深く読ませて頂きました、これからも楽しみに記事を読ませて頂きます。
2016年07月19日 08:55
戦争の歴史を物語る遺物がこんなところにも残っているんですね。演習場と聞いて思い出しました以前goさんと内灘の砂丘に行き不自然なコンクリートの造り物があり射撃のかつての演習場と聞きました、検索したら「つとつとさん」のブログ記事詳しく書いてあり拝見しました「内灘海岸着弾地観測棟遺跡」だったんですね
http://72469241.at.webry.info/201209/article_75.html
2016年07月19日 15:04
幸村様へ
毎日熱い日が続きますね、長野も今日は30℃の予報ですが、こちらもそれくらいあります、週間予報を見ても雨マークが無いので、もう梅雨が明けたのではないかと思っています。
内灘の遺構も今回私は書いた監的壕も同じ目的のものですね、内灘の物は昭和28年ごろの朝鮮戦争の頃に使われたようです。
内灘と云えば幸村さんと行った頃は、電車から降りてアカシヤ林や、サツマイモ畑の砂丘の丘を越えて海に行ったものですが、現在では砂丘の畑も住宅街になって、海側の斜面も住宅が広がっています、風が強い時は砂が飛んで大変だと思います、私も長い行っていませんが、着弾地観測壕は今も残っているのでしょうかね。
2016年07月28日 17:44
↑↑↑まだありますよ^^白帆台が出来たおかげで行き易くなりました^^権現浜の着弾点は昼顔の名所だし、海の家はカレーが名物だそうです。お試しあれ
粟崎の観測所は草木に覆われて解り難いですが、まだ残骸がありますよ。
立野ヶ原演習場は名前は知っていましたが、城端中学校に宿営地(廠舎しょうしゃ)の碑を観たくらいで、監的壕の存在は全く知りませんでした。機会があったら是非観てみたいものです。
日露戦役では第九師団は多数の戦死者と全員負傷という損害と引き換えに最前線で戦っています。北陸の各地に忠魂碑があるように、日露戦役の戦死者は北陸人が多く、今も先人の魂が刻まれています。
2016年07月29日 07:53
つとつと様へ
内灘の観測壕はまだ残されているのですか、最近あちら方面に行っていないので知りませんでした。
立野ヶ原の監的壕は20年以上も前に桜が池に良く行っていました、その頃は丸山の監的壕は樹木や蔦に覆われていましたが、地元で保存するようになってから、説明看板が立てられたり、周辺の樹木や草が刈られてよく見えるようになっていました、もう一つの目玉監的壕は田園地帯の中にあって半地下壕になっていて位置を探しのに苦労しました。